Thursday, March 19, 2015

ラジオシャック倒産に思うこと 第1回


私が最初に勤務した会社の小売部門であったラジオシャックが94年の長き歴史を閉じて、2月に破産申請をしました。そのうち2400店舗をスプリントに売却。スプリントといえば、ソフトバンクの孫さんですね。その孫さんに初めて会ったのが、A&Aに入社した83年の頃。コナミなどアーケードゲームの販売代理店をされていたソフトバンクを訪ねて、広いショールームに一人佇み迎えて下さり説明を受けたのを覚えています。

このラジオシャックの倒産も当然対岸の火事ではなく、これから色々なところで同じ流れが起きるでしょう。引き金は違っても世界チェーン展開している日本マクドナルドやケンタッキーでも起こっています。当時の頃を振り返りつつ、ラジオシャックの倒産に思うことを連載で綴ってみたいと思いますのでお付き合いください。

初めての勤務先がA&A Japan, A Division of Tandy Corp.という日本支社。本社はテキサス州フォートワースにあり、日本以外にも韓国、台湾、香港、シンガポール、オーストラリア、ベルギー、イギリス、フランス各国にも支社をもつRadio Shack向けの製品買付部門でした。83年当時、時代は電卓からパソコンに移り始めたまさにパソコン時代の幕開け。このRadio Shack、80年代は7000店舗以上で家電製品の小売販売を網羅。当時セブンイレブンとどちらが店の数が多いか競っていました。

そして、私が入ったA&Aという製品買付部門。A&Aは、日本の電機業界の草分けともなられた山縣夫妻がニューヨークで創設された会社でした。Made In Japanといえば粗悪品のレッテルを貼られたいた時代に夫婦でマンハッタンにショールームを開設し、当時の日本電機メーカーの製品や部品などを紹介する商社。会社を電話帳で探してすぐにわかる(つまり、最初のページのトップ)に来るようにとA&A。そこにはアジアとアメリカの架け橋になるというご夫妻の想いも込められていました。日本部品トップメーカーのひとつでもあるアルプス電気との付き合いも長いものがあります。そして、電卓にBASICを入れたPocket Computerは、カシオやシャープのOEMでした。
参照:

私が入社してすぐに担当した製品のひとつに当時大ヒットしたModel 100があります。Microsoft本社、ASCIIがソフト開発、ハードウエアを京セラが担当した世界初のモデル標準装備のノートブックでした。当時のラジオシャックの副社長でコンピューター関連のバイヤー責任者であったのがジョン・シャーリー。のちにビル・ゲイツがMicrosoftの社長へと引き抜いた人でした。


無いものを世に送り出すことで市場を創る。世の中を アッと言わせてみたいという気概というか雰囲気が売る側にも作る側にも一体感としてあったパソコン創生期だったと思います。そして、Model 100が長く私がノートブック製品を企画開発していく始まりでした。製造メーカの京セラは当時まだ稲盛さんが社長でバリバリと前線指揮をされていた時代でもあり、その後稲盛さんと会食をさせていただく機会に2度恵まれましたが、その時の組織論=アメーバ組織が今のEnLinx Partnersの”Partners”の理念の根底に流れています。今風でいえばクラウドソーシングでしょう。しかし、90年代前半にすでにそれを言われていた稲盛さんの経営者としての先見の明。これについてはまた別の機会に。

続く

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